かれこれ1時間になる。
飛び乗った電車は家とは逆方向にどんどん遠ざかっていく。
平日のローカル線には人もまばら。
こちら側の席には4〜5歳の男の子を連れた母親が一人、私の横に座っている。
向かいには学生が一人、老人が一人。
離れて立つ夫は斜め横の優先座席のつり革につかまって、窓際の男を睨んでいた。
その小柄な男は茶色いクラッチバッグを胸に抱えて、あたりをきょろきょろと見まわしている。
あ、いけない。私と目が合った。私はとっさに中づり広告を読んでいる風を装ったが、
男は私をじろじろと見た後、次に夫を見て、表情が硬くなった。
事の発端はこうだ。
見知らぬ街に夫の友人の見舞いに来た帰りのこと。
駅に続く商店街のアーケードを歩いていた時に、偶然この男と出くわしたのだ。
「よう、久しぶりやないか!」
夫が声をかけると、男はたいそう驚き
「あ、あ… こんなところで… お久しぶりです」
「どないしとんのや。ここに住んどるんか?」
「あ、いや、ちょっと用事で」
夫は話を続けようとしたが、男は「急いでるんで」と駅の方向へ足早に去っていった。
「追うで」
夫は離れた自販機でコーヒーを買っていた私に走り寄り、宣言した。
「経理のヒモや! 捕まえたる!」
5年前、夫の会社の金を横領した経理の女は服役中だが
共犯とされた男は雲隠れ。いまだにつかまっていなかったのだ。
夫は男の後を追った。
私もあわてて後を追った。
男は駅の改札を抜け、ホームに止まっていた電車に乗った。
夫はあとから来た私に
「離れて。気づかれんようにな」
私は頷き、隣のドアから車内に入り、素知らぬ顔で席に座ったのだ。
男が夫につけられていることに気がついたのは何駅も後のことだった。
その後はドアに移動し、2メートルくらいの距離でにらみ合いが続いている。
空いているのにつり革に手をかけて立つ不自然な夫。
ほかの乗客は何も知らない。
ただ、2人の周囲の空気だけが緊張している。
そんな状態で1時間ほどが過ぎたころ、男は私の存在を察知した。
その表情で逃走への意志が強固なものになったことがわかる。
さても次の停車駅でドアが開くと男が降りた。
夫が続いたのを見ると、男は脱兎のごとく駆けだした。
私もあわててあとを追う。
男はホームにあったトイレに駆け込んだ。
夫は入り口で後から来た私に「ここで見張ってるから」と改札を指さした。
私は駅員に駆け寄り、警察に知らせるように頼んだ。
ほどなくして警官が来た。
外で見張っていた夫とトイレに入って行き、男を捜したが
中には誰もいなかった。
男は手洗いの小さな窓から逃げた後だった。
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